コラム7
研究力と国語力の意外な関係
2014年2月11日作成

 大学教員の仕事に就いて5年が経ちました。これまで数多くの学生の投稿論文原稿、修士論文や卒業論文を見て、添削してきました。その経験から、次のようなことに気づきました。

「研究が上手い人は、しっかりした文章が書ける」

これは僕の今までの経験では例外は一つもないです。

 「研究の上手下手」と「文章がしっかりと書けるかどうか」は、理系の能力と文系の能力であることから一見全く別な能力のように思えます。しかしこの両者には強い相関があることがわかってきました。

 研究が上手い人は、自分がやっていることを客観的な視点から俯瞰できる人が多いように思えます。そういう人は、

「研究目的に照らして、今やっている方針は本当に妥当か?」

「主張したいことを示すにはどのような実験をすればよいか?」

「この研究は面白いか?」

などを常に自問自答しながら研究を進めることができます。研究の上手くない人は、解析や実験でもやっている人のみの興味で、客観的に見てどうでも良いことにこだわって、細かいデータを取ることに熱中したりします。この研究の上手い下手は、「自分のやっていることを客観的に見られるかどうか」に依存すると思います。

 「自分のやっていることを客観的に見られる」かどうかは、そのまま良い文章が書けるかどうかに直結します。理路整然とされた論理的な文章が書ける人は、自分の書いた文章に対し、

「用語の選択や使用法は正しいか?」

「論理的に正しい文章が書けているか?」

「自分が主張したいことが明確に書けているか?」

などを自問しながら書くことができます。これができない人は、用語・語句の使用法が違う(頼むから辞書を引いてくれ…)、何が言いたいのかわからない、簡単なことを回りくどく言う、そもそも主語と述語が対応していない、という文章を書いてしまいます。

 研究にしろ文章を書くことにしろ、やる時には本当に熱中して取り組む必要があると思いますが、それを客観的に眺めることが非常に重要です。このような視点の遠近の切り替えができるかどうかが特に他人に説明する場合には重要であり、それは研究の上手さと文章の上手さに同時に現れます。

 上記のことは考えてみれば当然のことなのですが、僕はやっとこの事に気づくことができました。こういった事実を考えると、日本の英語教育を今後どうするか、といった問題にもヒントが見えてくるように思います。が、それはここでは書きません。

 とにかく大学生は客観的な視点を身につけ、良い研究をし、良い文章が書けるようになりましょう。その視点は日頃の訓練で身に付けられるはずです。


注:本文で言っている「文章の上手い下手」は、文学的な文章の上手い下手ではなく、内容が明確でわかりやすいかどうかという意味で用いています。